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作家もの和食器の店 東京町田 

古伊万里

■ 古伊万里 とは

一般的に「古伊万里」と呼ばれているものは、江戸期に伊万里・有田で焼かれた焼き物のことです。

が、江戸期は長い。

なので、いろいろな事件・事情があり、様々な変遷を経ているので、豪華なものから質素なものまで、いろいろなものがあるのが「古伊万里」です。

 

古伊万里は大きく初期伊万里・前期伊万里・中期伊万里・後期伊万里・幕末伊万里という時代の流れを持っています。

 

おおざっぱに解説してみましょう。

 

初期伊万里は、1600年代初期、秀吉の時代の文禄・慶長の役で、朝鮮から引き上げの際に日本に連れ帰った陶工たちによって、佐賀藩の伊万里・有田で作られ始めたもので、将軍家・諸大名への贈答品などの上手のものをいいます。

前期伊万里は、1600年代中期から1700年頃までのもので、色絵や赤絵・金襴手などの技術が発達した時代のもの。この頃のものは東インド会社を通じてヨーロッパに輸出されるようになります。これは、中国の景徳鎮の焼き物が内乱でヨーロッパへ輸出されなくなったことがきっかけとなっています。

中期伊万里は、1700年頃から1780年頃。献上されるものや輸出される上手のものは、品質の維持管理が鍋島藩によって徹底して行われていました。しかし1757年、中国の景徳鎮の焼き物のヨーロッパへの輸出が再開され、日本は東インド会社との取引が終了し伊万里焼きの輸出ができなくなってしまったため、次第に、武家や庶民向けのものがつくられていくようになりました。

後期伊万里は、1780年頃から〜1840年頃までのもので、この頃から国内向けに伊万里焼きが大量生産されるようになっていきます。

1828年、文政11年に有田で『文政の大火』がおこり、登窯はほとんどが焼けてしまったため、有田の陶工たちが波佐見や三河に移り、その技術が、いわゆる下手ものと呼ばれる簡素な絵柄の庶民向けの食器へと引き継がれていきました。

そして1806年、それまで藩(鍋島藩)をあげて守っていた磁器の技術を、瀬戸の陶工加藤民吉に持ち出されてしまい、今まで伊万里独占だった磁器の生産が全国に広がっていきました。

 

幕末、それまで手書きで行っていた絵付けに、大量生産ができる印判が普及していきました。伊万里以外の地で生産された、印判などの技術によるものが多いため、そのようなものは古伊万里としないようです。